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【中途視覚障がい老人の一言②】

【中途視覚障がい老人の一言②】

[私の知り合いであり、尊敬する人物でもある方からのメッセージです]  

白杖を持つまで ・・・

私は医師から網膜色素変性症の告知を受けた後は、定期的に医師の診察を受けるように指示されていました。しかし、受診しても何の手立てもなく、悪化する時期を待つだけのように感じていたので、ほとんど受診することなど有りませんでした。医師の診察を受けようと感じたのは、就職して理学療法士資格を得る為の夜間学校へ通学が始まって間もなくのことでした。急に物が見えにくくなったように感じられたからです。就職直後の視力は右0.1・左0.2でしたが、受診しての視力検査では、右0.05・左0.07となっていました。医師の説明では、病気によって眼を酷使することによって病気の進行は速まる。そしてこの病気では光の乏しい中での文字を読み書きすることは、眼を酷使することに該当すると教わったのです。この診察以後は、医師の元に通うことが一つの定例行事となったのです。私は就職以前に、鍼灸・按摩・マッサージ・指圧の免許を取得する為に、都内阿佐ヶ谷駅近くの厚生省管轄の国立東京視力障害者センター(元東京光明寮)中途視覚障害者施設で、1969年4月から1972年3月まで学習しました。その学習の中に、歩行練習も入っており、指導教官に白杖を使っての歩行指導を受けたことを覚えています。しかし、就職しても結婚しても子どもに恵まれても、白い杖に頼ることなどなく、悪化している視力での独歩歩行で子どもと遊んでいました。これを読まれている晴眼者には、視力0.05・0.07の視力で独歩歩行が可能かと疑問を感じるでしょうが、後天性で徐々に視力が低下した私には、充分行動可能な視力なのです。それでも徐々に視力低下が進み、0.01・0.02となったときには、行動の自由は束縛され始めたのです。行動の自由が奪われるようになると、歩行していて対面者を避けることができなくなり、衝突するようになったのです。このような事実を医師に話すと、「え、白杖を使っていなかったの・・・?」と驚かれ、即、白杖を使うように言われました。その事で、「白杖を持つのは、自分の行動を助けるだけでなく、他の人に視覚障害者であることを知らせる意味がある」と説明を受けたのです。後に知ったことですが、この杖を持つことによって次のように法で保護されることとなっていたのです。

●道路交通法  1(目が見えない者、幼児、高齢者等の保護) 第十四条:目が見えない者(目が見えない者に準ずる者を含む 以下同じ)は、道路を通行するときは、政令で定めるつえを携え、又は政令で定める盲導犬を連れていなければならない。2目が見えない者以外の者(耳が聞こえない者及び政令で定める程度の身体の障害のある者を除く)は、政令で定めるつえを携え、又は政令で定める用具を付けた犬を連れて道路を通行してはならない。(運転者の遵守事項)  第七十一条:車両等の運転者は、次に掲げる事項を守らなければならない。二 身体障害者用の車いすが通行しているとき、目が見えない者が第十四条第一項の規定に基づく政令で定めるつえを携え、若しくは同項の規定に基づく政令で定める盲導犬を連れて通行しているとき、耳が聞こえない者若しくは同条第二項の規定に基づく政令で定める程度の身体の障害のある者が同項の規定に基づく政令で定めるつえを携えて通行しているとき、又は監護者が付き添わない児童若しくは幼児が歩行しているときは、一時停止し、又は徐行して、その通行又は歩行を妨げないようにすること。二の二 前号に掲げるもののほか、高齢の歩行者、身体の障害のある歩行者その他の歩行者でその通行に支障のあるものが通行しているときは、一時停止し、又は徐行して、その通行を妨げないようにすること。 ●道路交通法施行令 (目が見えない者等の保護)  第八条:法第十四条第一項 及び第二項の政令で定めるつえは、白色又は黄色のつえとする。2 法第十四条第一項 の政令で定める盲導犬は、盲導犬の訓練を目的とする一般社団法人若しくは一般財団法人又は社会福祉法(昭和二十六年法律第四十五号)第三十一条第一項 の規定により設立された社会福祉法人で国家公安委員会が指定したものが盲導犬として必要な訓練をした犬又は盲導犬として必要な訓練を受けていると認めた犬で、内閣府令で定める白色又は黄色の用具を付けたものとする。3 前項の指定の手続その他の同項の指定に関し必要な事項は、国家公安委員会規則で定める。4 法第十四条第二項の政令で定める程度の身体の障害は、道路の通行に著しい支障がある程度の肢体不自由、視覚障害、聴覚障害及び平衡機能障害とする。5 法第十四条第二項 の政令で定める用具は、第二項に規定する用具又は形状及び色彩がこれに類似する用具とする。このように法や施行令で保護されていても、また医師から白杖を持つように言われていても、私は白い杖を持つことを躊躇していたのです。〔白杖を持っていると周囲の人に注目されるのではないか?〕と思うのでした。でも、白杖を使い慣れてくるに従い、自己の思いが間違えであったことを知らされたのです。

● 白杖の役目 これを読まれている晴眼者の目と同じ役目をする物です。目の代わりで、歩く先の一歩から二歩前の足元の状況を見ているのです。地面の状況・段差の確認・障害物の有無・これらの確認をしているのです。白杖で突くこと・たたくことで障害物の有無や音で、金属・プラスチック・コンクリート・土等を判断しているのです。杖の届かない遠い物や空中の物は確認できません。○ 自己の思いが間違いと感じるようになったのは・・・法や施行令で保護しているのは法で言う道路と車両等であって、前から来る人や横・後方からの歩行者からは守られていなかったのです。どの方法から歩行者が歩いてきたとしても、白杖を蹴飛ばしたり踏みつけたりするのです。白杖の中には、携帯に便利なように折りたたみの物もありますが、これは直杖よりも強度が不足し、これを踏まれると折れることもあるのです。そして、突き当たったり・杖をけとばしたり・踏みつけた人は、何も言わずにどこかに消えてしまうのです。それと共に軽車両である自転車は、白杖を持つ者を驚かせ、恐怖させる物とは知らなかったのです。走っていても音のしない自転車は、盲人に近づいているのか否かを判断することができず、杖が自転車に当たってからわかったり、自転車に杖を踏まれてから知るのです。そして、何の声かけも無くどこかに行ってしまうのです。自転車だけが杖を踏むのでもないのです。大通りに側した歩道を歩くと、大通りにつながる路地があり、通りに出ようとする車が大通りの車の流れを待ち、出られる機会をねらっているのです。あるいは、横断歩道の上に止まった車に突き当たり、そんな停車時の車の横壁に当たり、何に当たり、車の前がどちらで、前からか?・後ろから?、どちらを回り込んで先に行こうかと迷っているとき、車が走り出し、白杖を踏みつけ遠ざかって行くのです。杖などを踏んだなどと感じているのかも知り得ないままに・・・歩行者や自転車や車に踏まれて杖が折れ、行動の自由を奪われて苦慮して誰かに助けを求めることとなるのです。助けに応じてくださる方も、白杖の折れた視覚障害者の対応には困るでしょうし、近くに交番等が有ればそこに連れて行ってくださいます。そして、交番の警察官から、コントに似た不思議な問いを問われるのです。

警察官:「どうされましたか?」 私 :「歩行者・自転車あるいは車に白杖を踏まれて、折られてしまった。」 警察官:「どんな人・自転車あるいは車ですか? 色は? 形は? どちらの方向に行きましたか?」  私 :「見えないから、そのような問いには答えられません。」 警察官:「えっ、・・・何もわからないと、調べる方法もないし、せめて誰かが見ていませんでしたか?」 ※※・・??  警察官は、マニュアルに従い質問しているにすぎないと感じるのです。視覚に寄ってしか確認できない物事を、視覚の無い者に尋ねているのです。「視覚の無い者の対応はここではできない」と言わぬばかりに・・・。交番で行ってもらえない受付が、何処に行けば受け付けてもらえると言うのか・・・疑問・・・??折られた白杖は、誰の責任なのかも調べてもらえないのです。泣き寝入りで、自費で再購入となるのです。白杖を使って歩く人を避けるのは、モラル有る人であって、モラルに欠ける人と出会ったならば、突き当たったことでとがめられたり、杖を折られたり、何も言わずにどこかに消えてしまうのです。白杖を使って歩いている者は、全く見えないか見えにくい者なのです。わざと突き当たったりしているわけではありません。皆様のモラルを信じて、安心して歩くことができるように、白杖を使って歩いている人を見かけたならば、自由な歩行をさせてください。道を開ける際に、特別な物に触れたか見つけたかのように、驚き飛び退くような態度もしないで下さい。避けられないときには、声を優しくかけて下さい。歩く際に、杖を左右に動かしていますが、それが前や横の人に当たることもありますが、わざと当てているわけではないのです。理解されてお許し下さい。 せっかくに道を開けてくださったのに、舌打ちして通り過ぎる人がいます。嬉しく思った気持ちを、がっかりとした気持ちに落とさないでください。物が見え・自由に歩くことのできる人は、とても羨ましい人です。何時・どのような原因からか、読まれている貴方も失明するのかも知れません。見え・自由に歩いている間に、障がい者の不自由を理解してください。自らが障がい者となってから、不自由を感じてもそれは手遅れなのです。

☆現在の私は、光を感じることもありません。しかし過去に、長野県の北・中央・南アルプスの山々に登り、高山植物の鮮やかな彩りの咲き誇る花を見たり、山頂からの眺めを経験しているのです。高山植物の鮮やかな色彩の花々の色は、見たことのある人でなければ表現しにくい色ばかりなのです。そして雲海の上に浮かぶ富士山を赤石岳の上から見た時、どれ程の感動を受けたのか、思い起こせば昨日のことのように思えるのです。また、バイクにまたがり、未舗装の砂利道を走ったことも記憶にある、楽しいことです。(私がバイクに乗っていた頃は、未舗装の道が田舎では多かったのです) 同じように視力障害者であっても、各色の鮮明・遠近の物の見え方・様々な風景・等々の視覚での確認は、先天性での全盲者には理解できない視覚での感覚です。光を失っている私ですが、小さな頭脳の中には過去の様々な経験に基づく、色や風景が沢山詰まっています。ですから晴眼者と目の前のバラの話をしていて、目の前に咲くバラの色を、説明によっては脳裏に浮かべることもできるのです。そして、バラの花を触り香りを吸い込み、バラの花の全体を想像しているのです。 2014年4月20日記